1、古代から中世にかけての女性と仏教まず、中世までの仏教のもつ女性観を概観したい。日本の仏教史上、女性を忌む思想は平安時代に入っていっそう明確になった[2]。 8~9世紀頃、尼僧は国家の仏事、法会の場から締め出された。 ここにおいて官僧と官尼という対応関係が崩れ、尼寺の僧寺への隷属も進行した[3]。 女性を穢れた存在とし、 忌避する考え方は日本社会への仏教の浸透と共に強く定着したと考えられる。 仏教の清浄を護持する考えが、 女性の生理や出産による出血を穢れと見て忌んだ[4]のである。 一方で仏法が王権に入り込む中で、 既に王権に結びついていた神信仰の持つ儀礼とタブーを取り込む必要に迫られ、 寺内における穢れの排除が行なわれるようになった。 女性差別の形成という点では 仏教と神信仰は相互補完的役割を果たしたと考えることができそうである。 さらに、平安時代を通して、仏教が人々の生活に入り込んで来るなかで 女性蔑視の思想もまた人々の間に流布され定着した。 とりわけ象徴的であるのが血盆経の流布である。 血盆経は10世紀以降に中国で成立したいわゆる「偽経」だが、道教にも取り入れられて 広く流布し、さらに日本に伝播した[5]。 ここでは、女性は月経、出産の出血による穢れから死後血盆地獄に堕ちると説かれ、 血盆経をその苦しみから免れることができると言う。 女性は生れながらにして穢れており必ず地獄に堕ちるというのである。 そもそも仏教は“五障”として「梵天?帝釈天?魔王?天輪聖王?仏」になれない、 つまり、女性は仏教世界の指導者にはなれないとしており、 女性は、悟りを得ることが出来ない=仏になれない=往生できないと、 女性の往生を否定している。 その理由は『法華経』によれば「女人は垢穢にしてこれ法器に非ざる」からとある。 これでは現世で如何に高い徳を積んでも悟りを得ることは出来ず、 往生は叶わないことになる。 既に述べたように8、9世紀に尼寺が衰退したが、 それにより女性の幼少期における出家は例外的になった。 一方で、老病死に際して現世や来世での救済を願う、 臨終出家が主流になったのである。 しかし、平安末期から鎌倉時代にかけて近畿のみならず全国に戦乱が相次ぎ、 夫を戦争で失った。 出家女性が急激に増加した。 古代では出家は婚姻関係を否定するもので、 離婚の一形態として出家が行われていたのに対して、 夫の死後に再婚を拒絶し夫婦関係を継続し 夫の菩提を弔うという新しい女性の出家に対する考え方が定着したことによる。 いわゆる“後家尼”の出現[6]である。 結果、戦死した夫の菩提を弔うため出家する武家婦人が増加し、 “後家仏教”の様相を呈してきた。 “鎌倉新仏教”、 中世仏教の担い手たちは、女性の救済、 “女人往生” の問題を考えざるを得なくなっていたのである。 |